2024年8月18日 説教テーマ「湖の向こう岸」

こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた。 マルコの福音書5章1,2節 マルコの福音書5章1-20節 №25  湖の向こう岸はゲラサ人の地、異邦人の町です。そこは嵐に翻弄されてたどり着いた場所ではなく、イエスがひとりの人を救う目的のために、計画的に向かった地です。到着するとすぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来てイエスを迎えました。汚れた霊はこの人を支配し、他人を傷つけ、自分自身をも傷つけるが故に、だれもいない墓場に住むほかありませんでした。すぐにイエスを迎えたというのは歓迎ではなく、反抗する意志の現れです。彼はイエスと「何の関係があるのですか」と尋ね、並行記事のマタイ福音書には、そのことばに続いて、「…まだその時ではないのに」(マタイ8:29)とあります。その時とは、神によって定められたさばきの時のことです。汚れた霊は終わりの時に自分たちが滅ぼされることを知っていました。今は終わりの時ではないのに、どうして煩わしに来られたのかと、非常な恐れを もって抵抗しているのです。汚れた霊が人を苦しめる目的は、福音を信じさせないようにし、神の国の完成を遅らせることです。そのために他人と向き合うこと、自分自身と向き合うことを奪うという効果的なやり方を知っているのです。神の国の実現と完成のために、この悪の支配と力を打ち壊す権威と力がなければなりません。イエスにはそれがあります。これまでも見て来たように、熱病も、風や波も、そして霊的世界も、おことば一つで言うことを聞かせる力をお持ちなのです。「レギオン」は4~6千のローマ軍団を指すことばです。つまりそれほどの数の悪しき霊がひとりの人に入っているのです。その数と力をもってしてもイエスにはかなわないのです。この悪の力に縛られていた人が、イエスによって解放されました。汚れた霊につかれた人は、「正気に返って座っている」(15)と記されていますが、並行記事のルカ福音書を見ると、「イエスの足もと」(ルカ 8:35)に座っているのがわかります。この態勢はただ座っているのではありません。イエスのことばを聞くために座っているのです(3:14,3:34,ルカ10:39)。権威のもとにひざまずき、イエスのことばを待っているのです。聞き従うためにです。これが悪しき支配から解放されて正気に返るということです。みことばに従うことは、他の何にも勝って自由を得させてくださるものです。