2013年2月10日 使徒の働き -全くきよい良心をもって-

パウロは議会を見つめて、こう言った。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」
使徒23:1


講解説教77
使徒の働き22:22-23:1

 正しく生活するためには、正しい判断が必要です。どちらが正しく、間違っているのか?どちらが悪で、善なのか?行動を起こすべきなのか、待つべきなのか?パウロの判断基準は「全くきよい良心」でした。これがクリスチャンの持つ判断基準です。他に選択肢があるというものではなく、唯一最高の判断基準がこれです。

 今パウロは、異邦人にかかわったことでユダヤ人の反対を受けています。反対する彼らに弁明する機会を得て、パウロが証したことは、自分が救われ、異邦人伝道に導かれたということです。火に油を注いだようなものです。この時のパウロの判断基準はユダヤの常識でも、相手の状況でもありませんでした。彼は自分を守る意識以上に、主が彼に示されたみこころを行ないました。この時パウロはローマ市民権も主張しました。ローマ市民にはむち打ちの拷問を免れる法律がありました。自分を守るためではありません。相手に罪を犯させないために主張したのです。

 正しい判断をしようと思っても、相手や状況によって、その判断が変わってしまうことがあります。その判断で自分が不利になることがわかっていればなおさらです。信仰とは無関係の一般社会においてこそ、きよい良心にもとづく、信仰的な行動が必要です。社会の常識と信仰の常識とを切り替えるのでもありません。二つの常識が並列しているのでもありません。私たちは何によって判断し、生活していくのか、よく考えましょう。「私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活してきました。(ユダヤ人の常識の中でも、ローマ社会の常識の中でも)」信仰を貫き切ることのできない勇気のなさがあるかもしれません。しかし生活している中でこそ、ゆだねる信仰に挑戦すべきです。主の教えのとおり!を体験しましょう。