2014年6月1日 聖書講演会 -生きることの意味-

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
Ⅰコリント10:31


「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、」(エペソ3:8) 

 使徒パウロは、福音を伝えることを許されたのを大いなる特権と感じた。自分の天職を苦しい仕事と考えず、大きな喜びをもって当たった。彼は非常に謙虚になった。

 積荷が多くなれば船は水中に深く沈む。怠惰な者は自らの力を盲信して高慢になるかもしれぬ。それは試練に会っていないためである。しかし熱心な働き人はただちに、自らの弱さを学ぶ。もし謙虚になろうと思うならば、刻苦しつつ働け。無に等しいことを知ろうとするならば、イエスのために大事業を企てよ。生ける神を離れては力のない者であることを知りたいと思うならば、キリストの測るべからざる富を世に伝える大事業のために、心を尽くすがよい。あなたは今まで決して気づかなかったほどに、あなたが弱い無価値な者であることを知るであろう。

 使徒パウロはこのように自らの弱さを知り、それを告白しているが、彼の伝道の主題については当惑することがなかった。彼はキリスト以外の何ものも伝えなかった。あなたが救いの福音を伝えるとき、キリストの模範にならえ。キリストをくり返し語り、あなたの話の題目とせよ。クリスチャンは愛らしい春の花のようであらねばならない。太陽が輝く時、それらの花は黄金の杯のような花びらを打ち開き「あなたの光で私たちを満たしてください」と告げ、太陽が雲のうしろに隠れる時、彼らは花びらを閉じて頭を垂れる。あたかもそのようにクリスチャンもたえなるイエスの感化力を感じなければならない。イエスこそ彼の太陽である。彼は義の太陽にゆだねた花でなくてはならない。おお、ただキリストのみを語る!これは種まく者の種であり、食事する者の糧である。そして伝道者のくちびるに与えられる炭火であり、聞く人々の心を開く親かぎである。(C・Hスポルジョン著 『朝ごとに夕ごとに』より)