2014年8月10日 エペソ人への手紙 -朽ちぬ愛をもって-

私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。
エペソ6:24


 手紙の書き方には基本的なパターンがあり、書き始めと結びの決まりは日本語でもあります。聖書にある手紙の結びも基本があり、ほとんどの手紙には「あなたがたにキリストの恵み、平安がありますように」と祝祷で結びます。エペソ人への手紙もそうなのですが(23節が)、最後にもう一つ祝祷が加えられています(24節)。それがパターンとは違い、何を意図しているのだろう?と考えさせられます。

 一つは祈っている対象が「あなたがた」というクリスチャン全般ではなく、「主イエス・キリストを…愛するすべての人」と限定的であること、しかもそのキリストを愛する愛が「朽ちぬ愛」であることです。これは不滅の神の愛をもって愛するということです。その朽ちぬ愛をもってキリストが私たちを愛するということだったら分かるのですが、その愛でクリスチャンがキリストを愛するというのですから実に考えさせられます。

 キリストをそこまで愛する人とはどんな人なのでしょう?イエスが「あなたはわたしを愛しますか?」(ヨハネ21:15-17)とペテロにたずねた出来事を思い起こします。イエスが求めた愛はまさに朽ちない神の愛(アガペー)でした。再びイエスの弟子としてお呼びになったときに、その愛をもって愛することを要求されたのです。その意味からも、朽ちぬ愛をもってキリストを愛する人とはキリストのほんとうの弟子であると言えるでしょう。手紙全体で求められたこと、例えば「一致しなさい、教会を建て上げなさい、古きを脱いで新しい人を着なさい(聖化)、世に対し光の子として歩みなさい、互いに従い合いなさい、神の武具を着けて悪魔とその軍勢と戦いなさい」というのは、最後まで従い続ける真の弟子に行うことのできるわざです。クリスチャン全般にも祝福を祈ったパウロでありますが、最後の最後でのこの祝祷は強い思いがあるのではないでしょうか?それはパウロの思いというよりもキリストご自身の思いです。それに応えるものでありたいのです。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることはできません」(ルカ14:26)主みずから、真の弟子となるために、他の何ものよりも、イエスを愛さなければならないことを教えられました。それがペテロに求めたものであり、朽ちぬ愛なのです。主は私たちにも求めておられます。