2015年3月8日 ルカの福音書 -安息日の主-

そして、彼らに言われた。
「人の子は、安息日の主です。」
ルカ6:1-11


 安息日は律法で定めた十戒の第四の戒めです。これは神が天地を創造されたことに起源を置いています。6日間で創造のわざを行い、7日目にすべてのわざを休まれ、その日を聖であるとされました(出エジプト20:9-11)。創造者を覚える日、また「エジプトから連れ出した神、主」すなわち神の救いの恵みを喜ぶ日が安息日です。神だけを覚える日とするために、その日は「どんな仕事もしてはならない」のです。ユダヤ人たちは安息日の目的を履き違え、安息日そのものを目的としてしまいました。どんな仕事も…イエスの弟子たちが麦の穂を摘んだはいいですが、それを手でもんだことは脱穀の仕事だ!とみなし非難したのです。彼らは神を崇めるよりも、安息日を守ったという自分を実現させることのほうが大事です。イエスは聖書からダビデの例を引用し、またイエス自ら、安息日に「いのちを救うこと」を行い、正しい安息日を強烈なインパクトで示したのです。その中で特にイエスが宣言されたことは「人の子(イエス)は、安息日の主です」(5) ユダヤ人は安息日の主をイスラエルの神と信じていたことから、イエスはご自分を神の位置に置かれ、ご自分への礼拝を要求されたのです。イエスの復活後、初代教会は、クリスチャンにとっての安息日を土曜日から日曜日に換えて、イエスを礼拝する日としました(今日もそう)。安息日はイエス中心の日です。今の主の日がイエス中心になっているか、よく考えるべきです。何も考えないと、簡単に人間中心の主の日に変わってしまいます。ただ主の日を守るということが目的になってはいませんか?主の日に自分の好むことをしていないですか?それは主が望んでおられますか?「安息日を『喜びの日』と呼び…自分の好むことを求めず…そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう」(イザヤ58:13,14)このことばから、私たちは自分が恵まれるために主の日を守るのではないことが明らかです。私たちが主を喜ぶから恵まれるのです。この動機の違いは実に大きいです。