2015年7月12日 ルカの福音書 神のことばを聞いて行う人

ところが、イエスは人々にこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。」
ルカ8:21


講解説教No.36
ルカ8章19-21節

 イエスをたずねて来た家族に対して一見冷たいイエスのことば、しかし、このタイミングでなければ教えることのできない大切なことがありました。霊的な家族は血筋の家族よりも大切であるということです。血筋の家族はこの世における一時的なもので、霊的家族は来るべき天の御国における永遠的なものだからです。イエスは決して家族をないがしろにされたのではなく、むしろご自分のおしえのとおりに愛しておられます(Ⅰテモテ5:8)。その霊的な家族とはどういう人たちのことをいうのかという上記のみことばに着目します。
 
 家族の住むナザレからイエスのおられるカペナウムまでは40キロほど。ちょっとした用事で来る距離ではありません。重い理由がありました。イエスのことを気が狂ったという人たちがいて、家族が連れ戻しに出て来たのです(マルコ3:21)。母マリヤとしては息子を心配してのことで、兄弟たちにとっては、自分たちも周囲から悪く見られると迷惑がってのことだったかもしれません。しかし、イエスが行っていたことは神の国の福音を宣べ伝えたことであって、父の唯一のみこころを遂行しておられます。そのためイエスは贖いの死を遂げるために「エルサレムに行こうと御顔をまっすぐ向けられ」て進んでおられるのです。彼らは神の御子としての最大の働きを止めさせようとしていることになります。彼らは「持っていると思っているものまでも取り上げられる」持たない人であり(18)、神のことばを聞いて宣教を行なわない人たちです。事実彼らはイエスのことばを聞きに、カペナウムに行ったのではありませんでした。彼らはイエスにつまずいたのです。イエスに対するつまずきは誰にでも起こります。そもそもイエスご自身不可解なお方であって、いったいこの方はどういうお方なのだろう?と驚きの連続です。自分の期待とずれることも多々あり、弟子としての変革を求められる点でも葛藤を覚えるのです。私たちはイエスの弟子として、聖書が証言するイエスをそのまま受け取るところから始めます。次にそれを証することができたら、人々に光をほんとうに見せることとなります。神のことばを聞いて行う人となりましょう。