2015年11月1日 聖書講演会(第二回)安らぎへの手引き

そういうわけだから、
何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、
などと言って心配するのはやめなさい。
マタイ6:31


マタイの福音書6章26-34節

 第一回目の聖書講演会は「人はなぜ安らぎを求めるのか?」について鹿毛師から語られました。「空の鳥を見、(考え)」また、「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえる」(マタイ6:26,28)ところに答えの糸口があります。鳥も野のゆりも神の創造のわざの一部です。創造の摂理に思いを寄せるならば、安らぎへの道があることに気づきます。人は鳥や野の草よりもはるかに優れたものです。神がそれらを創造されたのであれば、人こそ神が造られたということは明らかです。その人が鳥や動物たちよりも優れたものとして造られたとは、人が人格的な交わりを持つように造られたということです。それは神に愛されるために造られたということであり、安らぎを求めるように造られたということです。人は神を見失うことが悩みの始まりです。そういえば、私たちの周囲は神を見失う要素が多くあります。携帯電話やパソコンによる情報社会の波がその一つであり、極めて多忙な毎日もその一つです。人が造ったもの、己の力は安らぎの根源である神を見失います。人は自分の力で生きるという観念を強いられる社会に生きているのかもしれません。そうではなく、人は神の創造のわざの中に「生かされている」のです。人がどうがんばっても、神の造られた自然の循環の中でしか生きることができません。それを空の鳥を見てよく考えるのです。鳥や花を見て考えることよりももっと効果的なのが聖書です。聖書のことばを考えることはまったき安らぎへの直結した道です。まずは神を認めるところからはじめていただきたいのです。その神を排除したところに安らぎはあり得ません。安らぎに似たものはいくらでもあるでしょう。しかし本物は一つです。