2016年7月31日 ルカの福音書 ー失われた息子のたとえー

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
ルカ15:17


ルカ15章11-24節
講解説教No.82

 神様はすべての人が罪人であることを自覚して悔い改めることを望んでおられます。15章はその神の愛の偉大さを教えています。3つ目のたとえの話し出しは、弟息子が独立生活をしたいから身代を前もってくれ!と。神から離れたいと望む人間の強い思いを表しています。アダムは神の豊かな支配のもとにあるエデンの園で、神の恵みを疑い、神から離れて欲に身を任せました。彼が神に従うことをやめたのは自分が主となったため、自分の考えのほうを正しいとし、神を自分の考えから遠ざけたのです。神から離れた結果はアダムにも弟息子にも見られるように、堕落と貧困の生活への転落です。豚のたべる餌を欲しがるとは落ちるところまで落ちたということです。そのとき彼は我に返りました。「お父さん…罪を犯しました」と心の中で。悔い改めたとはいえ、この時の彼の思いは父のもとに帰れば食料にありつけるという自分本位な思いです。以前とそう変わりありません。しかし悔い改めの第一歩であることは間違いありません。動機が不十分であれ父のほうに向きを変えたのですから。人が教会に通い始める動機も、苦しさから解放されたいとか、安らぎを得たいという自分本位なものです。父のほうに向きを変えたのですが、見つけたのは父が先でした。ずっと息子の帰りを待っていたからです。ただ待っているのではなく、父に思いを向ける息子を待っていたのです。つまり息子の意志を尊重して待ち続けてくださったのです。黙示録3:19,20に戸の外に立って待ち続けているイエスの姿を見ます。私たちの人格を尊重し、提供されている救いを受け入れるかどうかの自由をあくまで重んじてくださっておられます。実に待つことは愛と忍耐という限りないエネルギーが必要です。それが他でもないこの私に向けられているのです。たとえが教えていることはシンプルに神の愛です。私たちは神に見いだされました。雇い人としてではなく息子としてです。神の子ども、その大事な関係一点に神は招いておられます。他に望んではおられません。私たちがその関係を心から望むまで神は待ち続けてくださいます。