2016年8月7日 ルカの福音書 -見出された喜び-

だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。
ルカ15:32


講解説教No.83
ルカ15章25-32節

 15章後半からの神の愛の偉大さについて学びます。父になだめられながらも家に入ろうとしないほど怒っている兄息子がいます。父がご馳走してくれなかったことを怒っているのではなく、駄目な弟が帰って来ただけで大喜びなのに、一生懸命仕えている自分の価値を認めてくれないことに怒っています。兄息子は父に反論しました。「長年の間、私はお父さんに仕えました」とあります。ここで使われている言葉は「奴隷として仕えた」という言葉です。自分の考えや意志に関係なしに、つまり彼は本心から仕えてはいなかったということです。周囲の期待の目を気にしてとか、父の遺産目的に仕方なくというふうに、自己保身が目的です。「戒めを破ったことは一度もありません」と断言しきった言葉があります。律法の一つ一つを確かに守っており、ことにあの弟とは違うという自負があります。このことから兄は父からも弟からも一線を引いていることがわかります。こんな兄に父は立ち返って欲しいと願っています。父との関係を回復した弟息子と同じように、実は父との関係が断ち切れている兄息子との関係も回復を願っているのです。「子よ。」と呼びかけているのはその現れです。兄は父といながら喜びがありません。関係が壊れているからです。そうすると人との関係も壊れます。彼は「あなたの息子」と呼び弟と口にすることができないほど、弟を受け入れることができません。あなたは他の人との関係は大丈夫ですか?心にわだかまりを持ちながらの関係ではないですか。その場合他人の中にその原因を見る前に、あなたと神との関係がちゃんと保たれているかをまず確認しましょう。神との関係を喜んでいますか?祈りやみことばから遠ざかっているなら、或いはただ義務に過ぎない状態であれば、修復しましょう。神は交わりたいのです。