2016年9月4日 ルカの福音書 ー神の助けなくしてー

アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』
ルカ16:31


講解説教No.86
ルカ16章19-31節

 金持ちとラザロの話は天国と地獄についての教えに取られがちですが、イエスが伝えたいところは別にあります。これは実名を使ったたとえ話です。そのあたりにもイエスの意図が見えます。「ラザロ」とはヘブル語の「エルアザル」を短くして出来た言葉で、「神が助ける」という意味があります。イエスが描いたラザロは全身おできの病人で金持ちの門前に置いてもらい食べる者を乞うほか生活の手立てがない貧乏人でした。つまり神の助けがなくては生きることができない人間を表現したのです。貧しいけれど誠実な人だったとイメージしたいところですが、聖書はそういうことを何一つ語っていません。一方、金持ちのほうは名がつけられていません。彼は高級な服を来て毎日贅沢に暮していました。ラザロが彼の家の門前に置かれ、彼はそれを許していたようです。イエスがこの金持ちで描きたかったことは、彼が地上での生活に満足していたことです。一つも困ることはなかった、従って神に助けを求める必要もなかったのです。ただ彼は地上のことだけを考えました。さて二人は死んだ後、ラザロはアブラハムのふところ、金持ちはハデスへ。金持ちは死で終わりではないことに気づかされました。暑いのでラザロをよこして欲しいとの願いは取り下げられ、彼は地上にいる5人の兄弟のところへラザロを遣わして欲しいと改めて願います。しかし逸れも否定され、「モーセと預言者(聖書)に聞くべきです」と諭されました。金持ちはなおもアブラハムの言うことを否定し、死人がよみがえって現れたら悔い改めるに違いないとかたくなに迫りました。聖書に耳を傾けないなら、奇蹟が起こって喜んでも信仰はなくなってしまいます。大事なことは聖書に耳を傾け、聞きますと謙虚でいることです。自分を正当化するため、自分の正しさをわからせるために聖書を利用したって駄目です。ただ神を信じて頼る他ない、その信仰によってのみ悔い改めて御国へ導かれるのです。ただ聖書に聞きましょう。それが唯一の道です。