2016年10月23日 ヨハネの福音書-何を求めているのか-

イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊りですか。
ヨハネ1:38


ヨハネ1章35-42節

「福音の光を持っている私たち」 10/22(土)仁戸名BBC修養会のメッセージより(井口師担当) Ⅱコリント4:1-6

「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(Ⅱコリント4:6)天地創造の光と同じように、神は失われた私たちの暗い心にキリストの御顔を輝かせてくださいました。頂いたこの光をどのように扱うかをパウロは教えています。「この務め」(1)、「キリスト・イエスを宣べ伝える」(5)と言っているので、頂いた光は自分のために使うものではありません。7節以降には「福音の光」が「宝」(7)、「イエスのいのち」(10,11)と言い替えられています。それを私たちを通して人々に「明らかに示」していくものと教えているので、福音の光の扱いというのは、宣べ伝えることだとわかります。しかしもし、宣べ伝えていなかったとしたら、頂いた光を私物化しているのであって輝きを失っています。福音の光を宣べ伝えていく大切な姿勢は、あわれみを受けてこの務めに任じられているということです。自分が何か霊的に相応しいものになったから宣教の働きができるのではありません。神のあわれみがなかったらクリスチャンとして生きること(礼拝、奉仕、献身…)さえ赦されていないでしょう。そうであればなおさらのこと、福音の光を宣べ伝える働きに加わることなど決して出来ないのです。神のあわれみによって福音を伝える働きをするということは、救われているクリスチャンであれば誰にでも出来るということです。また自分が弱いということが福音宣教をしていかない理由にもならないと言うことです。高価な油を塗りにイエスのところにやって来た罪深い女も、人前に出ようとしなかったサマリヤの女も、イエスを裏切ったペテロも、ただ主にあわれみを受けたという事実だけをもって、福音を宣べ伝えることをしました。私たちも間違いなく、福音を宣べ伝えることができます。主のあわれみに感謝します。