2017年3月12日 カンボジア宣教 -私たちが仕えるべきもの-

私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。    
エペソ3:7


エペソ人への手紙3章7節

 「そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。」(使徒16:11)

 神のみこころを確信できなかった時のパウロは、自分の進みたい道があるのに当惑したり、追い出されたり、打たれたりしてその行動を妨げられて来ました。神のみこころとは人をお救いになる神の堅いご意志のことです。神にお従いしたいと思う人でも、みこころはなかなかわからないものです。なぜなら、人間救済のそのご意志は人知を超えた神の永遠のご計画だからです(エペソ3:11)。しかし、ひとたびみこころがわかるとまっしぐらです。パウロの乗った帆船は追風にのったことで、主の目的地に「直航」したのです。はじめから神のみこころがわかる人はいません。それがわかるために戸惑いのう回路があるのです。アジヤへの道を絶たれたあと、確信して直航した最初の場所はローマの入口となったピリピの町でした(ローマから直送した移民の政治と生活習慣の町)。世界の中心であると自負していたローマは、全世界の究極的な支配者であるキリストの先発隊が、その日、帝国の最前線の一角を占領したなどと夢にも考えていなかったでしょう。拠点はひとりの婦人ルデヤの家でした。主は彼女の心を開き、みことばを信じることができるように導きました。その家族も信じ(16:11-15)、後に看守とその家族も救われました(16:19-34)。私たちもルデヤのように全く主に心をささげるなら、驚くべき勝利を私たちの町で得られるようにしてくださるでしょう。世界宣教のはじまりもこのような小さな足場から始まるのです。この後の歴史は、このピリピの婦人の心に十字架の旗が高く掲げられたために、偉大なローマはその光栄ある旗を低くしなければならなくなったのです。小さな足場は福音に仕える忠実者たちによってしっかりつくられるため力強く拡大していきます。