2018年2月4日 ペテロの手紙第一 -その足跡に従うように-

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。  
Ⅰペテロ2:21


講解説教No.14
Ⅰペテロ2章21~25節


私たちが救われたのは福音を宣べ伝えるためです。そのために選ばれ、聖とされ、神の所有とされた私たちは世との違いのもとに過ごします。当時のローマ社会で「しもべ(奴隷)」だったクリスチャンたちは、「横暴な主人に対しても従う」ことで福音を伝えました。そのことから本日考えたいことは、日常生活の中でキリストの十字架を示すということです。職場、学校、地域という日常の中でキリストの十字架を示す良い方法は、尊敬の心を込めて主人に従うことです。理由もなしに非難されてクリスチャンとしての言動が誤解される時に従うことこそキリストの十字架が明らかにされるのです。その模範を示されたのがイエスキリストです。イエスほど不当な扱いを受け、それに耐え忍ばれた方はいません。非難されても自己弁護せず、告発されても抗弁されませんでした。最も模範にすべきは「正しくさばかれる方にお任せになった」ということです。任せたからこそ自己弁護も、権利の主張もせず従うことが出来たのです。私たちがどう生きるかは、神が私のために何をしてくださったかということに基づいています。神が救ってくださったその召しのゆえにこう生きる、ああ生きるのです。「召す」との言葉は特別な立場を意味します。当時のクリスチャンたちはローマ社会での奴隷としての召しを受けていました。学生は学生として、社会人は社会人として主の召しを受けています。その立場で尊敬をもって従うのです。考えてください。今いる立場を神の召しとして受け取っていますか?それによって神があなたに望んでおられる使命が何かを知っていますか?その使命に忠実ですか?学生として勉強が重苦しい義務としてではなく神から召しとしてとらえ直そうではありませんか。今の職場を生活の糧を得るためのものとしてではなく、神からの召しとしてとらえ直そうではありませんか。