2019年7月28日 コリント人への手紙第一 -信仰を吟味せよ-

さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。          
Ⅰコリント3:1


講解説教 №18
Ⅰコリント3章1-4節


 3章に入り、パウロはコリントの兄姉の内面に深く突っ込んでいきます。彼らを「肉に属する人、キリストにある幼子」と言いました。「いつまで、子どもでいるのか」というお叱りの言葉です。彼らの歩みは救われていない人のようです。ただ、与えられた救いは確かなものです。彼らの生活は、習慣的に罪を犯し続け、神に逆らい続けても構わないというものではないということははっきりしています。神に喜ばれたいという思いがどこかにあったのです。それが救われた人の特徴だからです。ところが彼らは正しい選択をしないで肉的な人としての歩みを選んでしまったのです。何が神に喜ばれ、みこころなのかを正確に見極めて、従って行くことの出来ない道を進んでしまったのです。コリントの兄姉たちの信仰が成長しない一つの原因は、みことばを聞くだけの者だったことが挙げられます。みことばを聞くということは、そのみこころに従っていくという責任が伴います。聞くことが目的になってしまうと成長は望めません。みことばを聞くと恵まれますが、聞いただけなら力にはなりません。力がなければ罪の生活からの変革はないのです。コリントの兄姉の現状は、ねたみでした。自分以外の人が注目を浴び、評価されるとき、ねたみの罪は黙っていることが出来ません。さらには争いでした。特にことばの争い。互いに「教会のため」と思って言い争うのです。しかし主が言われる教会のためというのは、赦し合う中で、賜物を用い合って仕えることです。そういう愛の実践ではなく、罪の実践が行われていたのです。「あの手紙(Ⅰコリント)によってあなたがたを悲しませたけれども」と、パウロは第二の手紙で語っています(Ⅱコリント7:8)。実に厳しい言葉ですが、信仰を吟味するには必要なのです。信仰の変革のチャンスです。痛みが伴いますが、必ず成長します。