2020年2月23日 コリント人への手紙第一 -自由を放棄する自由-

もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。
Ⅰコリント9:12前半



講解説教№38
Ⅰコリント9章1-12前半


 パウロはコリント教会の生みの親、その子たちがパウロの使徒性を疑う事態が起こっています。そこで彼は、自分が使徒であることを主張するための権利を、例を挙げて弁明します。そしてその使徒の権利によって自由が与えられていることを明らかにするのです。使徒には教会から報酬を受け取り、それで生活していく権利があることを主張しました。このことは詳しく例を挙げ、既に旧約聖書で教えていることも示したのです(民数記18:21-)。使徒は人々に福音という霊的なものを提供し、それによって人々は救いに与かり、神の民の一員とされました。それに対して教会は使徒の生活を支える報酬をもって応えるというのが聖書の教えです。パウロがこの権利を執拗に主張するのは、使徒性を疑うクリスチャンたちが、教会の報酬を目当てにパウロが使徒だと言っているのではないかとまで批判していたからです。パウロとしては反論せずにはいられないのですが、しかし彼の主張のゴールはそこではありませんでした。もし使徒としての権利が奪われてしまうと、教会において神のみことばが束縛されてしまうことになります。使徒たちの自由と権利が大事にされ、その生活が支えられなければならないのは、彼らが教会において自由に、大胆に、みことばを語ることができるためなのです。教会がこの世の力、束縛から自由に歩むために、何より必要なことは、神のみことばが教会で自由に語られることです。この世の様々な束縛は、多くの場合、金銭や生活にかかわることです。みことばを語る者たちが、それらに束縛されずに、みことばに集中していくことによってこそ、教会はキリストにある自由と解放を得ることが出来るのです。パウロの自由さは、その当然の権利を自ら用いないほどの自由さです。他の人が福音の恵みに与るなら、あえて自由を放棄できるのです。