2020年3月8日 コリント人への手紙第一 -何とかして、幾人かでも救うため-

弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。             
Ⅰコリント9:15


講解説教№40
Ⅰコリント9章19-23節

 パウロはここで、自由であり、また奴隷であると言いました。これは矛盾しているのではなく、自由な者だからこそ、自らの意志で奴隷の側に行くことが出来るというものです。その自由をもってパウロは、ユダヤ人の救いのために、律法に支配されるユダヤ人のようになりました。彼らは律法を守ることで選民であることができると自負していました。その結果、彼らの生き方は「律法の下にある者」つまり律法に支配されました。かつて律法を守る厳格者だったパウロは、キリストと出会い、救われたことで、律法の支配から解放されました。人は日本人として生まれ育った環境、文化、様々生活様式に支配されます。「こうすべき…すべきでない」と培われた考え方以外を受け入れることが難しくなります。しかし自由を得ると、日本人でありながら、その本質は神の国民です。ですから様々な習慣、常識に束縛されている日本人を配慮しつつ福音を宣べ伝えることができるのです。また教会の中で弱い人たちに対しても、弱い人のようになって配慮することができます。信仰の弱さゆえに、主への礼拝を中心に据えた生活が出来ないでいる方もおられるでしょう。その人たちに対して「信仰者としてふさわしくない」と言うことも出来るのですが、それは自由と権利の行使となってしまいます。多忙な生活の中で毎週礼拝を守ることができるのは感謝すべきことであって、誇ることではありません。信仰の強い者が「弱い者になりました」とは、信仰の弱い人をさばくのではなく、教会の交わりの中で、礼拝の喜びに生きる信仰を教えていき、育てていくようにするのです。キリストがすべての者のために奴隷となってくださったことで(十字架)、私たちのうちに救いと喜びが広がりました。私たちも信仰の意志をもって権利を主張せず、奴隷となることで、福音の恵みを受けるのです。