2015年1月11日 伝道する喜び (教会のヴィジョン)

そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
使徒16:30,31


使徒16章16-34節

 「神に祈りつつ賛美の歌を歌っている…」悪しき思惑にはめられ牢獄に入れられ、むちで傷を負い、自由を奪われたパウロが、なぜ賛美など歌うことができたのでしょうか?パウロだからといって置かれている苦しい状況を喜んでいるのではありません。彼は神のみこころのうちにいることを喜んでいたのです。パウロは今、ヨーロッパの大地を初めて踏みしめているのですが、それはどうしてでしょう?彼が伝道しようと計画していたのは「アジヤ」と呼ばれる地域で、海を渡ったヨーロッパなど考えにも及びませんでした。ひとりの協力者を連れて意気込んで伝道しようとしたのですが、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって二度に渡って禁じられたのです(直接的なのか、困難な状況が生じて断念したのか?)。不本意にも彼が向かっていた方向はヨーロッパでした。エーゲ海の海辺まで来たところで「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と叫ぶひとりの人の幻を見たのです。これこそ主が彼を伝道のために招いている声でした。それを確信するや、ただちに船に乗り、向かったのです。伝道の主導はイエスです。そのみこころに従うところに伝道の喜びがあります。パウロは不本意な投獄から助け出されることを喜びとしないで(彼はそれを求めてもいなかった)、たとえ獄中でも主のみこころのうちにいることを讃えたのです。私たちもみこころに従いましょう。どんな状況にも左右されることなく進むことができます。もう一点、伝道する喜びはそこに築かれる信頼関係の素晴らしさです。看守のパウロとの関係は、牢の厳重な番という仕事上の関係であってそれ以上のものはありませんでした。「死んではいけない!われわれはここにいる」との声は看守にとって神のような声だったでしょう。事実ひれ伏して救いを求める看守はパウロのうちにイエスキリストを見たのです。双方に信頼関係が生まれているのに気がつきます。このあと看守はパウロを手当てし、家に招いて食事のもてなしをし、彼も、家族もイエスを信じたことを喜んだのでした。伝道は福音を伝える人の人格を通して相手と関わっていきます。そうなると、その人でなければならない伝道というのがあるのです。ピリピではパウロに代わる者はいません。学校のクラスや職場ではどうでしょう?そこにいるクリスチャンに代わる者はいません。ひとりひとりが福音を伝えるのです。