2019年10月13日 コリント人への手紙第一 -あなたは神のもの-

あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
                     
Ⅰコリント6:15


講解説教№28
Ⅰコリント6章12-18節


教会は、神の栄光を現すという目的で存在していることは聖書が示す事実です。高慢の罪に埋もれて、その目的を失ったコリント教会に対して、パウロは現状を理解させます。その上でクリスチャンが神とどのような関係にあるのかを教えていきます。第一にクリスチャンは、神のために生かされている存在です。そのためにクリスチャンには自由な選択が与えられています。神の救いに与っていない人には自由はありません。罪を犯すしかないからです。「すべてのことが私には許されたことです」とパウロが言ったのは、コリント教会の不品行を犯した人の立場を代弁しています。不品行まで正当化した自分中心の見方です。「しかし、すべてが益になるわけではありません」、「…どんなことにも支配されはしません」は神を中心としたパウロの立場です。皆さんはどちらの発言ですか?さて13節でパウロは食物と腹の切っても切れない関係から、コリント教会の人たちもからだと不品行は切り離せないと考えていることを指摘しました。食物も腹も、その役目を終えるときが来ます。なぜならクリスチャンは栄光のからだに変えられるので、それらは不要となります。それらは役目を終えますが、からだと不品行はそうではありません。からだは不品行を犯すためにあるのではなく、神のためにあるからです。キリストがよみがえられたのは、私たち自身のよみがえりのための重大な保障です。ですから私たちは必ず神と永遠の過ごすのです。この神の栄光のために私たちは生かされているのです。罪を犯すためでも、欲望を満たすためのからでもありません。救われた私たちは神の所有です。ですから神に喜ばれたいと願いながら生活するのです。またクリスチャンはキリストのからだの一部で(15)であることから、私たちが罪を犯す時は、キリストのからだに罪を犯させているのです。