2020年3月15日 コリント人への手紙第一 -福音と自制-

また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
Ⅰコリント9:25


講解説教№41
Ⅰコリント9章24-27節

 幾人かでも救うため自由と権利を放棄したパウロは、福音のために自制が必要であることを、競技のたとえで教えます。ただ、このたとえはアテネやコリントで行われた競技大会のことで、そこで得た収益金はギリシャの神々に奉納されたものでした。信仰的なことを教えるのに、あえてふさわしくないたとえを用いたのには理由があります。それは、異教徒さえ競技で賞を得るために自制するのであれば、永遠のいのちを約束されているクリスチャンはなおさら、そのいのちにふさわしい自制が必要だということです。「自制」という言葉自体も異教文化で使われているもので、パウロがあえて使ったのは、コリント教会が倫理的にも恥ずべき現実があったことを示しています。キリスト教会が異教世界の中でこそ、正しい姿に建て上げていくという重要な課題を私たちに教えているのです。次にパウロは、決勝点(目標)がどこかわからないような走り方はしないと教えます。ゴールが良く見えている走り方です。キリストから賜る永遠のいのちの恵みの価値を知っているクリスチャンは、そのゴールがはっきり見えているのです。そのゴールは天の御国というだけではなく、そこで神によって用意されている冠を受けるという目標です。冠を受けるための信仰者の歩みは一つ、福音宣教です。このために「からだを打ちたたいて従わせ」るのです。これは、神としての権利を放棄して、十字架においてからだを打ちたたいて従われたイエスとともに生きることを言っているのであり、義務や強制を意味するのではありません。パウロが教会から報酬を受けずに宣教を続けたこと、今後肉を食べないと権利を放棄したことは、自らのからだを打ちたたいてイエスとともに歩んでいる姿なのです。不思議なことに、強制とはならず、むしろ、益々イエスに倣いたいと願うものです。